ベラルーシ訪問(1993年8月)

チェルノブイリ原発事故から20年

事故のニュースを聞いたときに襲われたあのときの絶望感・虚しさは忘れられません。

事故から一週間後、数千キロ離れた日本にも放射能が降りそそぎ、子どもたちに食べさせようと畑に植えたイチゴも汚染されました。それにもまして取り返しのつかぬ事態に立ち至っている汚染地のことを想像するだけで、私は胸が押しつぶされそうになったものです。
それから7年後に、私はベラルーシの汚染地を訪ねました。さらにまた13年が経ちましたが、現地の人々の苦難は続いています。500年以上過ぎなければ元の大地には戻らないのですから。

処理処分のできない核廃棄物を生み出す原発は、ほんらい実用化してはならない代物です。
今日、財政破綻のつけを子や孫に先送りしてはならないというスローガンのもと、行財政改革が叫ばれています。それならば、核廃棄物を子や孫に先送りするしかない原発も一刻も早くやめなければなりません。それが核の被害者の悲しみに本当に応えることになるはずです。



患者のレントゲン写真を前に,腫瘍の影を指さすミンスクの腫瘍学研究所のディミチク博士


ベラルーシの放射能汚染(セシウム137)地図濃いオレンジ色が特に汚染のひどいゴメリ州とモギリョフ州。
チェノブイリ原発はベラルーシの南東側国境(画面右下)に近いウクライナ領内(首都ミンスクは地図のほぼ中央)


ミンスク郊外のニュータウン,マリノフカ。事故の数年後にゴメリ州などの汚染地から,多くの人々が移住してきました。


ホームステイしたマリノフカの移住者のお宅。言葉の通じない外国人を温かく迎えてくれました。


ミンスクからモギリョフ州へはバスでの長時間の移動になりました


美しい森と平原の中を流れる川(モギリョフ州)


モギリョフ州クラスノポーリエ市(人口約1万3千人)。事故後人口が半減しました。


ゾーン(高濃度汚染地区)に立つ白樺の木


放射能に汚染され廃棄された農場


除染のため芝生と表土がはがされた学校の敷地で放射線を測定。


この民家の軒下は200マイクロレントゲン。


クラスノポーリエの病院の小児科のお医者さんたちと。


地元の小学校の先生のお宅にも招待されました。


対ドイツ防衛戦(第二次世界大戦)を戦ったお年寄りたち

  

   
クラスノポーリエとチェリコフの子供たち。ほとんどの子どもが疲れやすく健康に問題をもっているとのことでした。
13年たって今ではこの子たちも青年になり,まもなく結婚や出産の年齢を迎えることでしょう。
20年が過ぎましたが,この地で暮らし続ける人々には,原発事故はそれほど遠い過去のことではありません。